『第二章』宝塚歌劇団専科(2)

ニール・サイモンの『Chapter Two』の日本語訳は早川書房から発売されている福田陽一郎氏と青井陽治氏の訳が一般的なものです。今回の宝塚での上演もベースはこの訳であると書かれています。僕もニール・サイモンは好きな劇作家なので家にもこの本があり、何度か読んでいます。

この本の初版は1984年で出版から30年ぐらい、ニール・サイモンがこの脚本を書いてからは1977年なので36年ぐらいが経過しています。30年以上も経過していると『今ならこう訳すだろうな』とか『もう、この事件はピンとこないよ』というものが出てきます。もちろん、原作通りに上演した方が良い作品もありますが、特に翻訳劇の場合は新しい言葉をどう取り入れたり、日本人になじみの無い言葉を置き換えたりというところが脚本家の腕の見せどころなのだと思います。

たとえばジェニファーとフェイの最初のシーン。ジェニファーの家に着くと家が暖かい。フェイは付けっぱなしで出かけたのかと聞くと、ジェニファーは『旅先から帰ってくる前にコンシェルジュに暖房を入れておくように頼んでおいた』と答える。元の翻訳では『守衛に頼んでおいた』となっている。当時の日本では『コンシェルジュ』という言葉は定着していなかったのだろうが、今なら『コンシェルジュ』という言葉だけで何となく高級マンションな感じも伝わる。こういうこと。

たとえばジョージとレオの2番目のシーン。女性が男性にアプローチするのに積極的であることの理由に『男の数が足りないんだ』と言うのだが、今回の公演では『ベトナム戦争の影響で』と足されていた。1977年のアメリカで『男の数が足りないんだ』と言えばその当時の人はそれだけで納得したのでしょうが、ここは日本だし、今は2013年ということもあり、一言挟んだんだろうと。また、同じシーンでジョージが女性の積極的な度合いを原作では『明らかに、旦那は休暇で旅行してるだけだと思う』と表現していたものを『お前の紹介する女性はみんな肉食系か』としていた。ニュアンスを伝えるには分かりやすい置き換えだなと思いました。

今年、『マイ・フェア・レディ』を観たときも思ったわけですが、原作の言葉を忠実に再現することが重要か、ニュアンスや意図を再現することが重要かによって変わってきたりもすると思いますが、より観た人に内容の伝わる表現方法の選択は大切なことのように感じます。

さて、2回目の観劇は10月10日(木)の14時30分公演。2列目の下手ブロック。客席には月組のトップコンビの姿が。

下手側からの観ていたので、当たり前ですが下手側と下手を向いているときの表情がよく見えます。舞台の下手側はジェニファーのマンション。女性二人の会話や最初と最後の電話のシーンのジェニファーなどがとても見やすい。ということで、2回目はジェニファーを中心に。

1幕は幸せに向かって進んでいく場面なので安心してみられます。特に出会いとなる電話のシーンが好きなのですが、慌てて出る1回目、少し慌てて出る2回目、ジョージからであることを確信して苛立ちながらでる3回目、そして『早く気持ちの整理をつけてください』と言われ、心解れて4回目の電話を迎える様子の変化が観ていて微笑ましかった。

2幕でのジェニファーの見せ場の一つはジョージに自分と向き合えと語りかけ続ける場面。かなりの長科白でジョージからの返事も無い。しかし、最後の最後の『私たちの愛は戦う価値があるのよ』でジョージを振り向かせるためには言葉に熱が無ければならないし大変な科白だと思う。ミュージカルならきっとナンバーの付く場面。それを夢咲さんはBGMもなく科白だけで見事に乗り切っていた。感情が乗っても科白が聞き取りやすく内容を伝えることができるのは素晴らしいと思う。

そして、なによりはラストシーンである。ジェニファーがジョージの自宅に駆け込んできて、ジョージが前妻の面影を振り切って前へと進もうとする場面。ジョージが前へ踏み出すことの証として『引っ越すことと』『前妻のお墓に報告に行こう』と提案するのだけれど、ここでの嬉しそうな表情がとても魅力的だった。その先はどうなるかは誰にも分からないが(実際、ニール・サイモンとマーシャ・メイソンも離婚しているが)、その瞬間の幸福感のようなものが舞台の最後で表現されているのがジェニファーの表情だったと思う。

・・・と書きましたが『Chapter Twoの最後ってそんな話だったっけ?』と思った方はきっとニール・サイモンのファンでしょう。その辺については(3)へ続く。

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