10月12日に1度観た後、17日(木)にも観に行って、今日が最後の観劇でした。
相変わらず大空さんは美しかったが、やっぱりこのお話は好きじゃなく、理解し難かった。
ここまでの間に少し『唐版 滝の白糸』について調べてみると書かれたのは1975年らしい。今からでは書かれたのでさえ40年近く昔であるが、その時代からなら昭和30年代から40年代は少し前の話。それほど昔に感じる時代設定では無かったのだと思う。よく『同時代性』という言葉で表現されるけれど、ある時代を共有している人々に訴えやすいテーマや題材というのは確かに存在するのだと思うし、きっと1975年の人々が鮮烈な印象を受けたのだろうなというのも分からなくはない。
また、物語に登場する一般的な売血が廃止されたのが1968年で、預血制度なるものが廃止されたのが1974年。今の感覚よりは『つい最近までよく聞いた話』だったのだと思います。そう考えると決して現代にスライドできるようなタイプのお話ではなく、テーマに普遍性はあるのかもしれないが、ある時代を切り抜いた作品であることは間違いないと思う。
個人的にイヤだったのは港の女の話をしている時に女性の容姿を『朝青龍』に例えていたこと。、たぶん、原作では当時の関取の名前だったのを置き換えていたのだと思います。あるイメージを伝えるのに著名人の名前を使うと分かりやすいのだけれど、こういう時代背景が大切そうな作品で突然、最近の人の名前を出すのはやめて欲しいなぁと思ったり。まぁ、些末なことなのだけれど・・・
さらに『唐版 滝の白糸』を調べてみると『社会の底辺』という言葉と『権力』というキーがよく見つかる。『高速道路の用地として買い叩かれ人々が追われた廃墟』や登場人物の設定を考えると『社会の底辺』を描いているというのは分かる気がする。しかし、『権力』というのは3度観てもよく分からなかった。最後に登場する工事人夫が権力の代理者であるらしいが、残念ながら僕にはそうは見えなかった。
他の劇団の解説には工事人夫が『町を破壊する』と書かれていたので、そうなれば権力の代理者的に見えたのかもしれないと思うけれど、銀メガネと羊水屋が乗っただけで大がかりにベランダが崩れるのに、工事人夫が屋根を走っても崩れないのは妙だし、主に工事人夫はアリダに向かっていくし、街を壊しているように見えなかったし、アリダは竹箒を振り回していたが、町の破壊を止めるのでは無く、自分の身を守っているようにしか見えなかった。
だからだろうか、アリダと工事人夫の争いがこの廃墟に潜んでいるもの同士の縄張り争いのようにしか見えなかった。原作を読む気にならないので観ただけの印象だけれど、工事人夫なら町を壊し、人に向かうなら機動隊でも登場させなければ『権力』って感じはしないと思う。
たとえば、町が破壊され、竹箒を振り回すアリダが10年前の銀メガネのように取り押さえられている喧噪の中で、抵抗の手段として、それこそゲリラが描いていた血の水道の蛇口をひねるようにお甲の血の水芸が始まって、みんな血まみれになって、たまらず人夫たちが逃げ去り、アリダだけが残るという感じならばまだ分かるか・・・微妙・・・でも、お甲の血を浴びているのがアリダだけってのもよく分からなかった。
脚本と演出との関係でどちらが影響してあぁなったのかは分からないけれど、お甲の芸人宣言も唐突だったし、役者さんは上手いし、照明もきれいだし、装置も凄いんだけれど、内容がイマイチ頭に入ってこなかった。
う~~ん(@@) こういう作品は詳しい人からレクチャーを受けながらじゃないと分かんないのかなぁ・・・と思う今日この頃。こういう話が苦手な1978年生まれの戯れ言です。