今日は1時間目の授業を終えた後、お休みを頂いて宝塚歌劇団月組公演『1789−バスティーユの恋人たち−』を観に、東京宝塚劇場へとお出かけ。
今日は早速、本題です。果たしてこれは宝塚の演目として相応しいものだったのだろうかという疑問と共に、潤色前の作品がホントにこんな内容であったのだろうかと、大きく『?』が渦巻いた件をちょっとだけ考えます。
まず、内容はちょっと脇に置いておいて、上演はとても楽しめる作品に仕上がっていました。最近はやりのフレンチ・ミュージカルの鮮やかさと楽曲の力強さも感じられたし、群舞やコーラスも思っていた以上に仕上がっていたし、見応えがあるものでした。そう、作品がしっかりと仕上がっていたからこそ、宝塚が決して踏み込んではいけない『群衆劇の成立』に一歩を踏み出してしまった、もしくは『スター制度』の根幹を揺るがすような終わりの始まりが始まる危うさがあったように感じられました。
簡単に言えば『主役がいなくても上演できるじゃん』ということです。
これは上演前から言われていたことですが、この物語の主人公ロナンが果たして宝塚向きかということが大きく影響していると思われます。しかし、それでも『エリザベート』の例もあるし、きっと宝塚版では変わってくるのだろうと期待していたのですが、結果としては前評判通り。もちろん、それは決して悪いことではなく、革命家たちもそれぞれのキャラクターが立っていて、作品としてはバランスが取れていたのですが、ロナンもその1人である印象を脱することはありませんでした。
それでも主役ですからもう少し何かあっても良いのではないかと考えてみると、1つの疑問が。果たして、原作からどのぐらいの潤色が行われているのか。
見終わって考えてみると、どう考えても作品としてのバランスがおかしい。今回の『1789』はフランス革命を王宮側・民衆側それぞれから描くという作品ですが、最後がバスティーユで終わる以上は、民衆寄りで描かなければならないはずが、どうも王宮側の印象が強い。その1つはやはり、マリー・アントワネットを演じた愛希れいかさんの圧倒的な存在感。そもそも舞台上で一番上手い役者を本筋じゃない側に配役すればバランスが崩れるのは当然だろうと思います。
そして、『その影響は作品全体に波及しているのでは?』と感じられました。色々な理由を付けて娘1を脇に回した言い訳をしている記事や放送を見かけましたが、結局のところ、娘1を脇に回した埋め合わせのためにマリー・アントワネットの役が必要以上に大きく潤色され、本来、娘1であろうオランプの存在感が薄められたのではないか。そうするとその相手であるロナンの存在感も相対的に薄まる。また、時間の配分が王宮側に傾いた結果として、民衆側の必要な場面(例えば、オランプがロランに惹かれている描写やロランがロベスピエールやカミーユたちに噛みついた理由)がカットされているのではなかろうか。
そう思ったきっかけは1幕の印刷所の場面でシャーロットがやってきてロランを教会へ連れ出す場面。ここでシャルロットがオランプがずっとロナンのことを考えてると言うようなことをストレートに科白で言った時に『そんな場面あったか?』と思ってしまったこと。そんな大切なことは普通ならこの一言に相当する場面か歌があるはず。実に疑わしいが、今まで見事なまでに潤色を繰り広げてきた小池修一郎さんだからそんなこともないのかなぁとも思ったり。
しかし、潤色については憶測の域を出ないが、いかなる理由があろうとも、この配役が作品全体のバランスを崩したのだろうなと思わざるを得ない。場面場面は良く仕上がっているのに作品全体としての盛り上がりに欠けている印象があるのは作品の仕上がりよりも、優先しなければならない事情があったように思えて仕方が無い。
場面場面はとても良かっただけに、全体としての残念感が勿体なくて仕方なかった。
(この記事はいずれ2015年7月1日 @ 21:00に移動します)