さて、先日、甲府南高校の緑陽祭にお出かけをしてきました。その後、色々あって中村先生から4冊の脚本を読ませて頂くという貴重な機会を得ました。これはとても幸運なことでした。
これからまとめることは僕を知る人からすれば意外な感じかも知れませんし、やはりそうかと思われるかも知れません。また、中村先生の作品を良く知る方々からすれば、既に語り尽くされていることで、何を今更ということかも知れません。きっと、『中村作品考察』はあちらこちらでされていると思うので、今回は上演を観させて頂いて、脚本を読ませて頂いて、考えたことについて記録しておこうと思います。まぁ、これもきっと語り尽くされていると思うので、真新しさは何もないと思いますが(^_^;)
例によって、『高校演劇』をこよなく愛する方はここでストップをm(_ _)m!!!
突然ですが(いや、頻繁に書いている気もしますが・・・)、誤解を恐れずにいうと、高校演劇で上演されることの多い『既成作品』はコンクールで評価された作品が多いのですが、そういった作品には前半は賑やかに笑いを誘い、40分ぐらい経過すると過剰な大芝居で重いテーマや感動的な話題が登場する作品が多い印象があります。そして、コンクールという性質から、多くの『創作作品』はそうした作品をお手本として作られるため、同じような構成の作品をよく見かけます。特にウチの県ではそういう作品がよく全国に行っていたので、さらにその傾向が強いのかも知れません。
従前、中村先生の脚本と言えば昨年、審査に行った際にも観た『全校ワックス』を観たことがあるぐらいで、どちらかというとネガティブに受け止めていました。理由は先に述べたような印象を持っていたからです。観る『全校ワックス』、観る『全校ワックス』どれも前半はやり過ぎなぐらいはハツラツと騒いでいるのに、全員が集まったぐらいから急速に重い芝居に落ちていく。なので、僕の中での分類ではいわゆる『高校演劇の典型モデル』という認識でした。
そういう認識であったところで、1月の高校演劇サミット、先日の緑陽祭で中村先生による演出の舞台を観る機会を得ました。その2公演についての感想は既に書いていますが今回、脚本を読ませて頂く機会を得て、色々と分かってきたことがありました。それは主に『脚本と演出と役者の関係』についてです。
今回、中村先生に読ませて頂いた脚本は『世界の謎ともうひとつ』『秘密の花園』『二万年の休暇、その終わり』『マナちゃんの真夜中の約束・イン・ブルー』でした。この一週間ほど、数回ずつ熟読。残念ながら、まず良くわかったのは、
『こんな本、書けんがなっ!(>_<)/』
ということでした。こういったモチーフを選択して脚本を書くことは僕にはできないと思いましたし、科白の言葉のチョイスもこんな風にはいかないだろうと。最近、中村先生のこのテイストを模して創作劇を作り、失敗している作品が身近にもたくさんあることに気づきました。きっと、高校演劇しか観ない人、読まない人には書けません。何より、高校生の言葉を書けるのは特殊能力だと認識すべきだと思います。
僕には絶対無理(>_<。)
しかし、そんなことよりも読んで感じることは、この脚本はどう読んでも役者を信用している人が丁寧に書き上げ、役者と稽古で磨き上げられたんだろうということ。実際、どうなのかは分かりませんが、印象としては稽古を通じて役者を完璧に把握した座付き作家が書き上げたか、稽古を通じて細かく調整されていったか、いずれにしてもイニシアティブが何処にあるかは別として、相当な共同作業があったのだろうと感じられました。甲府南の上演を観ていると、とてもサラサラと科白が繰り出されますが、それを支える1つの要因がここにあるように思います。
『そんなの当たり前だろう』と思われる方もいるかも知れませんが、そうでもありません。創作脚本の上演を観ていると明らかに役者の口に合っていない科白が羅列されていることが多くあるし、『その科白、役者はおかしいと気づかなかった?』という科白も時折、出会います。
顧問が脚本を書くのはなかなかに罪深い(+_+) 日々、反省(・д・)
そんなことを思いつつ、色々と考えを巡らせていくうちに、最も注目すべき点は脚本の『短さ』ではないかと考えました。『世界の謎ともうひとつ』は読んでみると、上演を観て感じた長さより、ずっと短い脚本でした。今回はデータで頂いたのでパッと分かるのですが、ト書き込みで15000〜21000文字ぐらい。実際には決して『短い』わけではなく、昨年審査に行った際に読ませて頂いた秩父農工さんの脚本もそのくらいなので、1時間の高校演劇の脚本としては標準ぐらいの長さだと思います。
では何故、『短い』と感じたのか。その正体は役者の科白のスピードとテンポだと思います。今、稽古しているウチの脚本はト書き込みで44000文字ちょっと。ざっと2倍の量なのですが、甲府南さんの上演を観た時にはウチの科白のスピードとテンポとあまり違いが無いように感じられ、あの高校演劇独特の科白回し(気にならない方の方が多いのかも知れませんが・・・)と間合いではなく、劇場で良く観る芝居の科白のスピードとテンポのように感じました。それで55分ほどだったので、当然、もっと長い脚本だと思っていたわけです。
例えばウチでこの脚本を読み合わせたら、きっと40分前後で終わってしまうと思います。では、残った20分近い時間は何の時間に充てればいいのでしょうか?
というか、ここに大きな分かれ道、もしくは大きな罠ががあると考えました。
恐らく、先ほど述べた『高校演劇独特の科白回しと間合い』でこの作品を読むと、あっという間に50分くらいになると思います。それは60分の上演時間を前提といる高校演劇の脚本としては『自然なこと』として受け止められ、よもや40分ぐらいで終わるような科白のスピードやテンポで上演しようなんて思いも寄らないのだと思います。そして、時間が余ると面白いところをより盛り上げることで時間を使い、科白の言葉が重い言葉になると言葉の意味通りに重い場面にして時間を使う。すると、55分ぐらいになって、とても『高校演劇らしい作品』として仕上がってしまう。
何が良い悪いではないので、それはそれで良いような気がします。でも、それではこれらの脚本の魅力は引き出せないと僕は勝手に考えます。もし、これがこれらの本の魅力だったら、僕は興味を持たなかったと思うからです。
『世界の謎ともうひとつ』を例として、観たものと読んだものを付き合わせていくと、20分近い時間は『脚本と役者を信頼した演出』に使われていたのだと思います。脚本は役者を信頼しているから、行間に役者の表現を幅を認めている。役者は脚本を信頼しているから、面白い科白を面白そうにいったり、悲しげな科白を悲しげに言ったりすることはない。演出は脚本と役者を信頼しているから、見せかけの『らしさ』を付け加える必要もない。
場面と場面を繋ぐ芝居や芝居の中の動きなどは、恐らく役者が下手だと観るに堪えないと思いますし、しっかりと鍛えられている役者に対する脚本と演出の厳しい要求の現れとも言えるのかもしれませんが、役者が期待に良く応えるからこそ、より要求水準が上がり、相互作用で魅力的な作品に仕上がっているのではないかと思い至りました。
つまり、必要なのは脚本と演出と役者の相互信頼が成り立っている←ここ重要。
少し長々と書いてしまいましたが、それらが全て相まって甲府南さんの上演は『普通の演劇』の1つであるように感じられたのだと思います。「『普通』って何だ?」と思われる方もおられるかも知れませんが、ここでいう『普通』というのは、役者の魅力を活かして、信頼して良い作品を作ろうとしている演劇という意味です。高校演劇界の大先生を掴まえて何を言っているんだかと言われそうですが、中村先生の作品は一緒に芝居を作っているのが高校生というだけで、ジャンルとしての『高校演劇』ではないということが、脚本を読んでみて改めて良くわかりました。
そして、先日観た時にも感じたのですが、改めて脚本を読ませていただいて、全く違う方向の作品を作っているので分かりづらいですが、作品作りのアプローチとしては実は親和性があるんじゃないかと勝手に思えてきたわけです。別の言い方をすると、僕に取ってはかなり謎な『高校生らしさ』というアプローチを必要とせず、普通のお芝居を作る文法で読み解ける作品なら、ひょっとして違和感なく取り組めるのではなかろうかと思えたりしたわけです。
・・・という訳で、もちろん、突然、秋にという訳にはいかないと思いますが、どこかのタイミングで中村先生の作品に取り組んでみるのも面白いかなと思いました。というか、今回はつくづく、脚本でいえば言葉選びのセンス、演出でいえば空間利用と色彩のセンスのようなものが自分には決定的に欠けていることが良くわかりましたし、昨年、県内最強のお手本がが無くなってしまったタイミングでこうした巡り合わせがやってきたのだから精一杯、活かさないといけないのだろうと思います。
また、ウチの県に決定的に欠けている『他の学校で頻繁に上演されるようになる創作脚本が生まれない』問題についても考える契機になっています。そこそこ全国大会に代表を送り込んでいる県なのに、そうした脚本がないのは、あまり共感されるような脚本が無いことを表しているのではないかと。もちろん、僕も含めて。作品の良し悪しとは別に『やってみたい』と思わせる魅力のある作品作りは大切なんだろうなと思いましたし、そのことについても少し考えるべきかなと思い始めたりしています。
兎にも角にも、もう少し中村先生の手の内を観察できる機会を増やさねばと思ってみたりしています・・・・・・が、他県の先生との交流ってどうしたらいいのか、謎だ(?_?) でも、まぁ、頑張ろう。