(この記事はいずれ2017年1月8日 @ 23:00に移動します)
お正月、家のコタツで温々しながらテレビを見つつ、ブログのリニューアルなどをしている時に、Twitterのタイムラインに気になるツイートが流れてきました。誰のものかというと、昨年の中央発表会に審査にいらっしゃった筑波大駒場のH先生のもの。この週末にある『高校演劇サミット2016』なるイベントについてのツイートでした。
『高校生の演劇と教育をめぐる細い、危険な橋を見事に渡りきった事件』
ウチを選んでくれたH先生がそう評する高校演劇・・・ 気になる・・・(>_<。)
・・・ということで調べてみると、今回の高校演劇サミットでは山梨の甲府南高校、大阪の精華高校、東京の都立駒場高校が上演予定で、調べた時点で日曜日の甲府南高校と精華高校のチケットだけが残っている模様。実は都立駒場の先生だけ存じ上げていたのだが地元ということもあってチケットが完売していた。甲府南といえば僕でも知っている高校演劇界の大物、中村先生(最初、名前を伏せて書き始めたのですが結局、後で作者名で登場してしまうことに気づいたので名前を挙げさせて頂きます)の学校。でも、中村先生の学校の上演で、中村先生の作品を見たことがないなと思って、せっかくの機会だし、2本ならば大丈夫だろう(何がだろう・・・(–;)と甲府南と精華のチケットを押さえることに。
そして、迎えた日曜日。バスで武蔵小金井へ向かい、中央線で吉祥寺へ。吉祥寺でお昼ご飯を食べて、井の頭線で駒場東大前へ。駅から徒歩5分はかからずにアゴラ劇場に到着。このイベント自体が開催されているのは前回の関東大会の時に来ていた審査員さんが宣伝していたので知っていたけれど、訪れるのは初めて・・・というか、そもそも1人で県外の高校演劇を観に行くのは初めてだと思う(県内だって滅多に行かないし・・・)。
いわゆる都内にある小劇場である会場はベンチシートで天井は高いが、間口は4間ほど、奥行きも4間ぐらいで舞台を設定しているように見えました。客席は100名入るのかなぁ・・・ぐらい。でも、満席の賑わいでした。
さて、1本目が甲府南高校『歩き続けてときどき止まる』作/中村勉。とても綺麗な合唱が印象的な本作。合唱コンクールを巡るクラス内のコミュニケーション、『コミ障』を悩んでネット上の『知恵袋』に相談し実践する少女、スクールカウンセラーに『コミ障』だと相談する少女などを描きながら、今の高校生の姿を等身大に浮かび上がらせているように感じられました。意外と抵抗感がなかったのは、描き方が『等身大に』という感じだったからかなと思います。浮かび上がる困難も、必要以上に深刻な問題に落とし込まずに描かれていて、物語がスッと入ってきました。
こう考えると、今まで僕が見てきた『全校ワックス』などの中村先生の作品は、必要以上に大きく振りかぶって演じられていたのかなとも思いました。本当はもっと自然な科白のやり取りで浮かび上がるものを見せるはずなのに、重めの内容の言葉を重めに表現して、失敗している例が巷に溢れているのかな、と。もしくは、高校演劇の名作だから簡単にできるだろうと思っているのかも知れないな、と。こういった作品は結構、基礎的な力が身についてないとシンプルに演じ上げることはできないような気がして、逆をいえば無駄に劇的にすることによって、その辺を誤魔化している上演が多いのかも知れないと考えさせられました。
ところで、甲府南さんのお芝居を観て、『あっ』と思ったことが1つ。それが照明。今年の秋に地区の審査に行った時に、大量のアンバーの明かりやら、狙いの良くわからないSSやらを使う学校がたくさんあったのは、ひょっとしたら中村先生の演出がお手本なのかも知れない、と。もちろん、中村先生の明かりは美しいのだけれど、これを真似ようとして、『アンバーの明かりを吊ろう!』とか『SSを置こう!』とか形だけ真似ようとすると、あの惨状になるのかも知れない。甲府南さんの照明が綺麗なのは、アンバーを見せるために沢山の照明を焚いているから美しいのであって、アンバーだけじゃダメなのでは・・・ でも、とても綺麗だったので、作品に取り入れるかは別として、あの照明は今度、部室で試してみようと思います。
続く2本目が『事件』と評されていた精華高校『大阪、ミナミの高校生』作/オノマリコ。埼玉県的には去年、芸総さんが上演した作品と同じ作者さんの作品だというのがパッと頭に浮かびます。さて、上演が始まって直ぐにことの重大性に気づきます。まず、役者の力量がとんでもない。呼吸をするように科白が繰り出されてきます。もちろん、シーンによって科白感のある部分もありますが、軒並み自然すぎる言葉。今までも『この学校はスゴイ』と言われても、正直、ピンと来ないことが多かったけど、今回は本当にビックリ。何より見せているわりに、あざとくなく、高校生らしさを過度にアピールすることもない。関西言葉という強みもあるのでしょうが、それだけではない会話の自然さがありました。それが故に、重めの物語でありながら、会話が異様なリアリティを生み出していましたし、高校演劇にありがちな外連味のある言葉でない分、物語がスッと入ってきました。
また、脚本にも凄みがありました。世に高校生の抱えるものを描いている風の作品は数多あれど、これほどグッと深くまで差し込みながら、絶妙な距離感を保って描かれている作品はなかなか無いと思います。『描いている風』の作品はたくさんありますし、『グッと差し込んでしまっただけ』の作品もたくさんあります。でも、表現としてのスタンスを崩さずにグッと迫りきっているバランスが感じられ、それが精華さんの表現と見事に調和しています。その表現に接して、『事件』という表現を用いたH先生の言葉は大袈裟ではないと感じました。
この作品を見てしまうと、かなり多くの高校演劇の作品が表層部分の出来事を過度に劇的に描いているように感じられてしまうかもしれません。高校生の問題のようなものを創作脚本として描くにあたって、生徒・顧問を問わず、きちんとした覚悟をして題材として扱い、表現として消化させようとしてるのか問われるのかもしれません。精華さんが意図してしているのか、表現者の覚悟としてスッと飛び越えているのかはわかりませんが、表現に向き合う覚悟のようなものを感じさせられたような気がしました。ちょっと大袈裟かな(・o・)
でも、せっかく意を決して『高校演劇サミット』などというイベントに足を運んだのに、これは逆にますます高校演劇アレルギーが悪化したような気がする( ̄◇ ̄;)
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