・・・ということで、フランス版の『1789』のDVDを取り寄せて観てみることに。もともとの作品がどんな感じであったのか、やっぱり気になってしまったので。
フランスのDVDなのでリージョン(地域)コードは日本と同じだけれど、映像方式がPALで日本とは違う。でも、パソコンでは観られるからと思って購入したら、ウチの何台かあるDVDプレーヤーのうちの1台がPAL互換だったらしく普通にテレビで観られました。
さて、観てみるとやっぱり潤色によってバランスが崩れていることがわかりました。フランスでヒットしたミュージカルならヒットするだけの理由があるわけで、宝塚版の問題は王宮側と民衆側のバランスが崩れていることだろうと思います。
まず、マリー・アントワネットとルイ16世の造形。これはこの作品の潤色が悪いのか、宝塚の今までの積み上げてきた『フランス革命もの』の歴史が悪いのか分かりませんが、この2人が良い人すぎる。『ベルサイユのばら』などで描かれる国王像・王妃像を引き継いでしまったため、王宮側に同情する余地を与えてしまったのではないかと思います。
例えば最初の王太子が車イスから立つ場面で、宝塚版はアントワネットは大喜びしていたが、フランス版ではそんなことも無く、すぐにフェルゼンとの逢い引きの相談に入る。ルイ16世は宝塚版では錠前やギロチンなどの開発に勤しむ知的な面が推されていたが、フランス版ではネッケルの進言をまるで子供のように落ち着きなく飽きた様子で聞く描写に場面が割かれています。とにかく、宝塚版の方が共に良い人として描かれ、フランス版では『一方ではこうでした』ぐらいの扱いでしかありません。
さらには『ベルサイユのばら』でお馴染みのマリー・アントワネットとフェルゼンの関係もフランス版ではあっさりと描かれています。フェルゼンが登場するのは最初のバレ・ロワイヤルの場面だけ。宝塚版では王太子の葬儀に姿を見せたり、別れの挨拶にまで訪れていますが、それもない。とても、物語の反対側の軸になるような描かれ方はされていませんし、2幕には夫婦喧嘩のような場面もあることから、おそらくフェルゼンとの関係や浪費癖について問い詰められていたのだと思われます。
では、民衆側はどうか。例えば例の印刷所でのロナンと革命家たちとの喧嘩の場面。ロナンとデムーランやロベスピエールが言い争いますが、フランス版ではこの場で仲直りをします。宝塚版ではこの喧嘩を2幕の頭まで引きずります。そのため、この後の数場面にロナンが絡みづらくなり、ただでさえ革命の英雄たちに比べて印象の薄いロナンの印象はさらに薄くなってしまった気がする。
また、やはりどう考えてもヒロインであるオランプが歌うはずの、La Sentence(邦題が分からぬ)がアントワネットの歌になっていたことがオランプのヒロイン感を薄め、アントワネットの存在感を強調する結果となってしまったよう。ロナンとオランプの展開が急すぎると思っていたわけですが、確かにロナンの脱獄を手引きしたオランプが、パリの街に姿を消したロナンを想ってこの歌を歌えば、オランプの気持ちの変化は分かるし、その後のシャルロットの手引きの意味も分かってきます。実際、その後、もう一回会う場面があってから教会の場面へと進むことを考えても、宝塚版ではロナンとオランプの場面がかなり省略されていることはあきらかでした。
・・・ということで、どう考えても宝塚版の後半の盛り上がりに欠ける展開は、娘1をアントワネットに配置したことから始まる負の連鎖としか思えませんでした。フランス版の展開は無理なくロナンとオランプの結末に向けて進んでいく良さがありますが、宝塚版はオランプを立てすぎまいとする、娘1への遠慮が見え隠れします。
それはラスト前のロナンが倒れる場面に象徴的に現れます。
宝塚版では銃弾に倒れたロランに近づこうとするオランプを父親が止めている姿が見られ、そのままロナンは迫り下がりで舞台から姿を消しますが、フランス版ではオランプがロナンを抱きかかえ号泣します。フランス版の方がよっぽどそれらしい展開だと想いますが、それではまるでヒロインのようだから、宝塚版ではそれが採用されなかったとしか思えません。宝塚版で恋愛要素が後退するなんて珍しい。
細かい演出や衣装については宝塚版の方が『らしい』部分があっていいなと感じましたが、話の流れは圧倒的にオリジナルの方がいいと思うし、ロナンとオランプを軸に盛り上げていけば、もっと宝塚らしい作品になったに違いないと思うと実に残念。
来年、東宝版が上演されるらしいけれど、きっとフランス版に近い演出に整理されるのではないか。その後に宝塚で再演される時にフランス版に近づいていたら、この初演は一体、何だったのかということになりかねない、そういう印象を持ちました。
(この記事はいずれ2015年7月2日 @ 21:00に移動します)