バーナード・ショー『ピグマリオン』の結末

前編である『Eliza! =PREQUEL “Let’s Work Earnestly!”=』の上演が終わって、改めて資料を読み込む日々が続いていましたが、そろそろ後編を書き出さねばと思っています。

後編は『ピグマリオン』の本編に入っていきますが、バーナード・ショーはこの作品の序文でこう述べています。

私はこの芝居をきわめて教訓的なものにしあげたが、これがイギリスはもとより、ヨーロッパの諸国およびアメリカにおいて大当たりをとったことは、芸術は絶対に教訓的であってはならないという空念仏を唱える連中に一矢むくいたことになると思っている。芸術は教訓的以外のものではありえない。(倉橋健訳『バーナード・ショー名作選』白水社 2012年 P.420)

簡単に整理すると、当時のイギリス社会で『言葉』が階級の固定化を招いていたが、教育によってその壁を乗り越えることが可能であることを訴えたのがこの作品であったわけです。

確かに『ピグマリオン』は興行的に成功しました。しかし、それが『教訓的なもの』として人々に受け入れられたかは謎です。その一端は物語の結末にあります。バーナード・ショーは1916年に書き足した『後日談』でこう述べています。

果たしてイライザはフレディとヒギンズの間に置かれてどうするだろうか? 彼女は一生ヒギンズのスリッパを取ってくる人生と、フレディが彼女のスリッパを取ってくる人生の、どちらを選ぶだろうか? 答えは一目瞭然である。(中略)彼女はフレディを選ぶだろう。そして、実際に彼女はそうした。(小田島恒志訳『ピグマリオン』光文社 2013年 P.244-p.245)

バーナード・ショーはこの結末にこだわりました。初演時にヒギンズ役の俳優がアドリブでイライザへの好意を表現したことに憤り、この『後日談』を書き足したのです。1938年に映画化された際にも決してイライザとヒギンズが結ばれるイメージを持たれないようにするために、バーナード・ショーは自ら脚本を担当しますが、監督のガブリエル・パスカルは別の脚本家にイライザとヒギンズが結ばれるように暗示するラストシーンを書かせ、アカデミーの脚本賞を受賞します。

また、バーナード・ショーが固く禁じていたミュージカル化は彼の死後に実現し、『マイ・フェア・レディ』が完成します。この作品では1938年の映画版の結末を引き継ぎ、ブロードウェイで6年半ものロングラン。オードリー・ヘップバーン主演による映画も世界的なヒットとなり、アカデミーで最優秀作品賞を受賞します。

つまり、『教育によって階級の壁を越える』という部分については『教訓的なもの』が受け入れられたのでしょうが、そこから派生する現実的な結末は受け入れられなかったのです。バーナード・ショーはイライザのように言葉の壁を飛び越え自立した女性が、ヒギンズのような選ぶことは決してないと細かく理由を挙げて『後日談』で力説しますが、『マイ・フェア・レディ』はそれを軽く飛び越えます。

HIGGINS:[softly]Eliza? Where the devil are my slippers?
[There are tears in ELIZA’s eyes. She understands]
(Alan Jay Lerner『MY FAIR LADY』英光社 1968年 P.152)

簡単に整理すると、『そういうヒギンズをイライザは受け止めた』ということ。バーナード・ショーが力説する『あり得ないこと』が、たった[She understands]というト書きによって成立してしまったのです。これは作者の思いと観客の受け取り方がズレてしまった典型的な例なのだと思います。裏を返せば、それが故に『マイ・フェア・レディ』の観客の思いに添った結末が多くの人に受け入れられ、現代にも色あせずに残り、原作より有名になってしまったのだと思います。

しかしながら、初演で観客の反応を観た後もバーナード・ショーは観客の意見などは吹き飛ばして後日談を書いたわけです。観客の解釈に真っ向から立ち向かう信念の強さがあったからこそ、バーナード・ショーはノーベル文学賞を受賞したのでしょうけれど・・・

(『Eliza! =SEQUEL “It’s Never too Late!”=』設定に続く・・・)


バーナード・ショー『ピグマリオン』の結末” への4件のフィードバック

  1. 前作もtomoさんらしい切り取り方と構成でイライザを魅力的に造形していたと思います。けなげさと若々しさとでもいうのかな。客はみなイライザの決意を応援したのではないでしょうか。前日談というより、独立した一篇であり得たと思います。本篇があとに続くときいて、さてこの続きがシンデレラストーリー?と考えると、イライザがどう変化していくのか少し心配。今日の投稿を読んでいるとtomoさんもそこで悩んでいるような気がしました。結末がどうであれ、きっとtomoさんらしい答を出してくれるでしょう。本篇も楽しみにしています。

  2. コメントありがとうございます。今回は反省会でyassallさんの感想を伺えなかったのが少し心残りでした。今回の作品のアプローチは『イライザがヒギンズの厳しいレッスンに何故耐えたのか』というバックヤードを作りたいなと思ったのがきっかけでした。次作については映画で3時間の物語をダイジェストにしても仕方ないので、また原作から跳躍して考えてみたいと思っています。

  3. 昔マイフェアレディを見たときは単純にあの結末に感動し、その後ピグマリオンを見たときも、同じことを感じました。後になって、ここで紹介されたバーナード・ショーの思惑を知って考えますが、私はバーナード・ショーの方が正しいと思います。映画は映画ですてきでしたけれど。
    ただこれから先の時代においては、バーナード・ショーが本来作った脚本に沿った物語の方が受けるように思いますね。イライザのような女性が、一生ヒギンズのスリッパを取って生きる時代は、もうありません。

  4. ふじもとさま、コメントありがとうございます。
    映画などのエンタテインメントは物語の盛り上がりに相応しい結末を求めることが多くありますが、1964年当時にはアメリカであっても『マイ・フェア・レディ』の結末が受け入れられたのだと思います。
    仰るととおり、現代においてはバーナード・ショーが想定した結末が当然のように感じられます。ただ、あの物語上ではフレディに感情移入できるほどの存在感がないので、映画としてはヒットしないかなとも思います。バーナード・ショーの思惑とは別にヒギンズのキャラクターが憎たらしくも魅力的に仕上がってしまったのではと考えています。

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