脚本を書くということ『1.動機編』

※少し病んでますので、高校演劇を愛する方は読まない方が・・・

最近、ずっと考えている『脚本を書く』ということについて。

高校演劇に携わるようになった時には脚本を書くことはないだろうと思っていました。『脚本家』というのは、とても特別な存在であり、憧れの存在でもあります。色々なお考えがありましょうが、やっぱり詰まるところ脚本が面白くないと作品の出来映えは限られます。どんなに演出家が頑張っても、役者が頑張っても、やはり限界があります。

脚本が『書ける人』というのは限られていると思います。想像力も必要だし、表現力も必要だし、構成力も必要。しかし何より、書き上げる力が必要です。よく小説を書くので一番大切なのは短くても良いから書き上げることだと言われますが、脚本を書いていると途中で止めたくなることが多々あります。もし、上演を前提としていなかったら、書き上がらなかった脚本もいくつかありました。

2008年の春に最初の作品を書いて以来、8年間で20作品を書いてきました。いわゆる『高校演劇』サイズの60分の作品が11本、60分×2(前後編)の作品が4本、自主公演用の100分前後の作品が5本という内訳。内容的にはオリジナルの作品が9本、脚色・潤色の作品が11本となります。

では、僕が『書ける人』かというと、どちらかと言えば『書けない人』です。想像力と構成力までは良いところまでいっているような気がしますが、表現力と書き上げる力が弱い。それは筆の遅さに現れています。話を聞くと僕が書けると思っている方々は軒並み筆が速い。2、3日で書き上げたり、脚本審査の脚本に3稿、4稿の表示があったりする。

じゃあ、早くから書けば良いじゃないかいと思われるかも知れないのですが、そもそも脚本を書きたいという欲求がないので追い込まれないと書けません。だから、稽古が始まる前に書き上げられる人は凄いと思います。こうしたことを勘案して自覚としては『書けない人』なので、本来ならば書かない方が良いことは分かっています。

では、なんで書いているのかというと、上演したい脚本がないから。

僕の上演している作品を観る高校演劇関係者や審査員は『高校生にしかできない作品に取り組みなさい』とか『高校生らしい表現をしなさい』などという方々がいますが正直、何を言っているのだろうか、と思います。

全ての演劇部員が高校、大学、社会人と演劇を続けて行くのであれば、今しかできない表現を追求するのも悪くないかも知れない(それでも如何なものかと思う)けれど、ほとんどの演劇部員は高校でしか演劇をしないのだから、彼らが憧れていたり、好きだったりする作品に取り組むのが何よりだと思います。

ただ、その方がよっぽど難しいから覚悟も必要。もちろん、演じる生徒たちが何を選ぶかということもありますが、世の中にあふれてる演劇を少し紹介すれば、そちらの方を面白く思うのは自然な流れだと思います。実際、僕自身も中学校の時にテレビで観た東京サンシャインボーイズの『ラヂオの時間』に憧れたのだから、きっとそうなる人は多いはず。

なのに、なんであんなに高校生ばっかり演じるのかが謎でしかない。先に述べたとおり、恐らく高校演劇関係者がそちらに線路を敷いているのだろうと思うし、コンクール・システムがそれに拍車をかけているのだと思います。でなかったら、あんなに高校生が登場する芝居ばかりが揃うわけがない。世に高校演劇の脚本集はたくさん出ているけれど、特定のジャンルの脚本集だとしか思えない。

つまり、高校生が演じる演劇が『高校演劇』なのではなく、高校生が選択すべき作品群のジャンルのことを『高校演劇』と呼ぶのだろう。これはいかにも不健全だ。

だから、一生懸命、脚本を書こう・・・というのが、脚本を書く動機です。なので、高校演劇の関係者の方で『シチュエーション・コメディーとかロマンティック・コメディーを書いているぞ』という方は是非、ご連絡ください。仲良くしましょう(^_^)/

(『2.禁じ手編』に続く)


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