役割と責任(1)

高校の頃のとりとめもない話。

放課後、部室に行って稽古着に着替える。授業中はメガネだったが稽古が始まる前にコンタクトに変える。カチューシャを付けて、柔軟をしながら自分の科白を確認する。何せ主演格の先輩たちは稽古場で脚本を開かないから、よもや先輩たちより科白の少ない僕らが脚本を見ているなんてことはできない。

そのため、自分の出ていないシーン(1年の時は当然そちらの方が多いのだが)の時は先輩の芝居を観察する時間だった。その時間は発見連続。『あぁいう言い回しをするのか』とか『あぁいう仕草をするのか』とか『あぁいう表情をするのか』など最も身近なお手本として、とても参考になった。先輩たちはとにかく上手かったが、それでも演出の先輩から次々と指摘が飛ぶ。そんなとき、主演格の先輩たちが演出の先輩をしっかりと見据えて、話を聞いている姿が印象的だった。

そんな演出の先輩が突然、今の稽古とは関係ない話を始めることがある。最近のテレビドラマの話だったり、見てきた芝居の話だったり。時には僕らに『部活に慣れたか』とか『学校生活はどうか』とか担任が聞きそうなことを聞いてきたりする。そこに他の先輩も加わってきて盛り上がる。もちろん、話の上手な先輩たちだったので、とても楽しかったのだけれど、何でそんな話をし始めるのかは謎だった。

稽古のことで印象に残っているのは先輩がいつも笑顔だったこと。特に自主稽古では後輩からは言いづらいだろうと思ってだろうか、『ここの確認をしたいから付き合ってくれる?』と笑顔で声をかけてくれた。先輩ができていないところなどない。そういうシーンは決まって下級生が確認しなければならないシーン。できるようになるまで、繰り返し繰り返し何度でも付き合ってくれた。そんな時も先輩はいつも笑顔だった。

そして、2年になると出番も増えてくる。それまでは先輩が作り出すシーンのイメージに乗っかれば良かったが、与えられる役が中心に近づくと自分でシーンの方向性を考えなければならないことが増えてくる。自分が出ているシーンでは相手を観察し、自分の出てないシーンでは物語の中で自分のシーンがどんな役割の場面なのかを知るために、誰が何をしているのかを確認していた。

この頃になると、あんなに上手な先輩たちが演出の先輩の話を一言一句聞き逃すまいとしていたのは、自分が表現したいことと作品の中で求められている表現のズレを調整するためだったのだろうと気づく。自分のことは自分では分かりづらい。演劇で自分の『やってるつもり』を信じることが危険であることを知ったのもこの頃のような気がする。

また、笑顔の理由も分かってくる。稽古場で難しい顔をしていると、やっぱり話しかけづらい。そうすると自主稽古に誘ってもイヤな顔をされれば、誘うのも面倒くさくなる。とりあえず、そっとしておこうと言うことになるのだけれど、それはもう終わりの始まり。そういう役者のいるシーンは仕上がらずに終わっていく。そして、それを繰り返していると結果的に部活を去って行くことになる。練習量が少なければ上手くならないし、上手くならなければ面白くもない。それは当然の帰結のようにも思えた。

(続く・・・かな?(・ω・))


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