ショーとワイルド(3)

では、ワイルドの言うところの第三段階における『真の退廃』というところをもう少し考えてみたいと思います。

ワイルドの第三段階(人生が芸術を追いやる)とは、つまり『人生をありのままに描く』ということなのでしょう。飛躍した展開や煌びやかな装飾などなく、現実に起こりそうな内容を破綻なく描くことをワイルドは『真の退廃』と批判したわけです。例えば、シェイクスピアは『ハムレット』の中で『芝居は自然に鏡を掲げるようなもの』と書いていますが、ワイルドに言わせればシェイクスピアですら、

彼は直接人生へ赴いて、人生の自然な発言を借用することを好みすぎる。(西村孝次訳『オスカー・ワイルド全集 第4巻』青土社 1981年 P.26)

ということになります。しかし、ワイルドの文章をよく読むと、単に現実感に満ちた作品が悪いと言っているのではないことが分かります。ワイルドは写実主義の多くは才能ある芸術家が『人生』を芸術的手段として想像力を持って利用していたのに対し、写実主義を気取る人々が『人生』を模倣して作品を作るようになったことから退廃が始まったと批判しています。さらにワイルドは役者にもその矛先を向けます。

これらの劇の人物たちは舞台の上で舞台をはなれたときとそっくりそのままの話しかたをする。つまりアスピレイションもなければアスピレイトもない。かれらは人生から直接とられた人生の俗悪さをあくまで微に入り細に入りうがって再現する。なまみの人間の歩きぶりや、作法や、衣裳や口調を再現する。かれらは三等車に乗っていても気づかれずに済んでしまうだろう。しかもそれらの劇はなんと退屈であることか! その目的とするところの、また唯一の存在理由であるところの、あの現実感というものをさえ生むことに成功していない。(西村孝次訳『オスカー・ワイルド全集 第4巻』青土社 1981年 P.27)

これを読むと『真の退廃』の意味合いが見えてくるような気がします。ワイルドは『人生が芸術を追いやる』ことによって、『リアリティーの追求』を隠れ蓑に『無表現』を恥じない脚本家や俳優が溢れかえったことに憤ったのでしょう。しかし、『このような方法では現実感を生むことに成功していない』ということは、裏を返せば『別の方法で現実感を生むことができる』とも言えます。おそらく、ワイルドはそれぞれの表現にはそれにあった様式美があり、その様式美の追求を芸術の中心に置いていたのだと思います。

つまり、何を言いたいかというと、ジョン・バーナード・ショーやオスカー・ワイルドほどの作家であっても、演劇観は大きく異なるわけで、自分の演劇観のみが正しいなんて夢にも思ってはいけないということです。自分が接している作品がどういうスタンスで作られているのかを察して、それにあった楽しみ方を見つけるべきなのだと思うのです。

もちろん、最初の切り口として自分の演劇観から作品に接することは悪いことでは無いと思うのですが、それが万能ではないということです。例えば、ショーのような観点のみでワイルドの作品を論じれば『教訓的要素がない』と切り捨てられてしまうのでしょうが、それは別の見方による楽しみをも切り捨ててしまっているのかもしれません。裏を返せば、自分の演劇観からの切り口で手応えがなかった時ほど、新しい楽しみ方を見つけるチャンスなのかもしれないとも思います。

一方、演劇を作る立場としては、自分の演劇観を乗り越えて、作品を理解してくれようとする人の見方に耳を傾けることが必要だろうと思うのです。例えば、脚本に軸足を置く人にとって、テーマに軸足を置く人にとって、様式に軸足を置く人にとって、自分の作品がどう見えているのかは貴重な感想だからです。とにかく演劇は1回の上演で何がどこまで伝わったかが全てですから、色々な角度からどう見えたのかを知ることが出来るのは大切なことです。それぞれの演劇観から指摘を受けることによって、自分の作品に何が足りないのかが浮かび上がり、次の課題が見えてきます。

裏を返せば、自分の演劇観から身動きが取れなくなっている人の『○○がないからダメ』と1つの角度から作品全体を切り捨てるような意見はほぼ役に立たないとも言えます。

ただし、ワイルドが『アスピレーション(気息)やアスピレート(有気音)もない』と批判しているように、自然な呼吸や発音は演劇観によらず重要だと思うので、『発声がダメ』とか『滑舌がダメ』とか『イントネーションがおかしい』などを指摘されたら素直にゴメンナサイをしなければならないと思います。

さて、前置きがとても長くなりましたが、次がいよいよ本題です。(4へ続く………)


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