ショーとワイルド(2)

ではまず、ジョン・バーナード・ショーの演劇観について考えてみたいと思います。ショーは戯曲『ピグマリオン』の序文の中でこう述べています。

私はこの芝居をきわめて教訓的なものにしあげたが、これがイギリスはもとより、ヨーロッパ諸国およびアメリカにおいて大当たりをとったことは、芸術は絶対に教訓的であってはならないという空念仏を唱える連中に一矢むくいたことになると思っている。芸術は教訓的以外のものではありえない(倉橋健訳『バーナード・ショー名作選』白水社 2012年 P.420)

この言葉には『Eliza!』を書く時にも触れましたが、ショーの演劇観はこの言葉にぎゅっと凝縮されています。芸術が『教訓を与えるような内容でなければならない』とすると、作品には何らかのテーマが存在し、それが教訓的な結末と共に表現されなければならないということになります。確かに『ピグマリオン』は向上心を持つことや学ぶことの大切さを教訓的に表現しています。そもそも教訓というのは、人の生き方や考え方に影響を与えるものですから、ショーの考え方に従えば、芸術は人生に寄り添わなければ存在しないということになります。

また、これも以前に触れましたが、

果たしてイライザはフレディとヒギンズの間に置かれてどうするだろうか? 彼女は一生ヒギンズのスリッパを取ってくる人生と、フレディが彼女のスリッパを取ってくる人生の、どちらを選ぶだろうか? 答えは一目瞭然である。(中略)彼女はフレディを選ぶだろう。そして、実際に彼女はそうした。(小田島恒志訳『ピグマリオン』光文社 2013年 P.244-p.245)

と『ピグマリオン』に『後日談』をわざわざ書き足し、『ヒギンズと結ばれることは絶対にない』と断言します。この作品を観た多くの人がヒギンズと結ばれる『夢』を見るわけですが、そんなことは『現実的』にあり得ないと切り捨てるわけです。そう考えると、ショーは教訓的に『理想的な人生』を啓示しながら、結末は『現実的な結末』に落とし込むことによって、夢物語にならないバランスを取っていたことになります。

そう考えると、教訓的な『テーマ』が無ければならないと考え、物語にはリアリティーを求めるタイプの劇作家と言えます。

では、一方のオスカー・ワイルドはどうか。ワイルドは『嘘の衰退』という著作の中で芸術の変遷について、3段階に分けてまとめています。

抽象的な装飾とともに架空の存在しないものをとり扱う純粋に想像力あふれた楽しい作品とともに『芸術』は始まる。これが第一段階である。ついで『人生』がこの新しい脅威に魅惑され、その魔術界への参入を求める。『芸術』は人生をその素材の一部としてうけとり、それを作り直し、それを清新な形で改造し、事実というものにはまったく無関心であり、創案し、夢み、美しいスタイルという、装飾的もしくは理想的処理という越えがたい障壁を自分と現実の間に設ける。第三段階になると『人生』の方が優勢となり、芸術を荒野へと追いやる。これが真の退廃なのであり、これにわれわれはいまや悩みつつあるのである。(西村孝次訳『オスカー・ワイルド全集 第4巻』青土社 1981年 P.25)

これを読むと、ワイルドにとっては第二段階までが許容範囲であることが伝ってきます。つまりは人生を芸術的な装飾で彩り、現実に起こりえる人生の枠を乗り越えて、喜劇は喜劇的に、悲劇より悲喜劇的に彩ることによって成立するということです。

確かにオスカー・ワイルドの作品は『そんな都合のいい話が………』という展開が良くあります。しかし、ワイルドに言わせれば『芸術である以上はそうでなければならない』ということになります。さらには科白の美しさや様式の美しさが加わって印象的な作品としていくと必然的に現実とは乖離するはずだと言うことでしょう。つまり、実際に起こるようなことをなぞるのは芸術とは呼べないのです。

………と、ここまで整理してくるとショーとワイルドの演劇観が大きく違っていることが浮かび上がってきます。ショーからすればワイルドの『夢み、美しいスタイルという、装飾的もしくは理想的処理』とは芸術ではなく、ワイルドからすればショーの『芸術は教訓的以外のものではありえない』とは真の退廃でしかない訳です。

そう考えると、ワイルドならば躊躇無く、イライザとヒギンズを結びつかせていたに違いないと思えるわけです。

もちろん、ショーの『教訓的』というものを『現実とは乖離した理想の姿』と考えれば、ワイルドのいう第二段階に通じる面もあるかもしれませんが、普通に考えれば『テーマ(教訓)を基調とするショー』と『フォーム(様式)を基調とするワイルド』と大別することができるかなと思います。(3へ続く………)


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