ショーとワイルド(1)

クリスマス公演の見通しも立ちつつあり、卒業公演のプロットも立ちつつあり、次は春へ向けて少し考え始めています。図々しくコピスまで見通して、2時間ぐらいで上演できる演目を考えるわけですが、ここの数日で急浮上してきたのがオスカー・ワイルド。

そこでオスカー・ワイルドについて考えてみたいと思い、家にある本をひっくり返し始めました。すると、面白いことに気づきました。今年の春・コピスで取り上げたジョージ・バーナード・ショーとの共通点と相違点です。ちょっと、頭の整理がてら、まとめてみようと思います。

ワイルドは1854年、ショーは1856年に共にアイルランドのダブリンで生まれています。ワイルドは医者の息子、ショーは貴族の流れを汲む家柄ですが父は穀物商を営んでいました。注目すべきはカトリック教徒の多いアイルランドにあって、ともにプロテスタントであったこと。そして、子供の頃に2人とも古典語を学ぶ機会があったこと。これは二人の作品に色濃く反映されています。

しかし、そこからアイルランドを代表する作家である2人は対照的な人生を歩みます。

ワイルドの才能は若くして花開きます。24歳で詩集『ラヴェンナ』でデビューし、同じ年、オックスフォード大学を首席で卒業。26歳で最初の戯曲・悲劇『ヴェラ』を発表。その後も作品を発表し続け、代表作の童話『幸福の王子』を発表したのが34歳、詩劇『サロメ』を発表したのが39歳。その後は劇作品を数作発表しますが、晩年(と言っても41歳の時ですが…)に投獄された後は新たな戯曲を著すことなくパリでこの世を去ります。46歳(1900年)という若さでした。

ワイルドはとても芸術家肌の人物で、世界中を飛び回る社交界の花形。その派手な服装や振る舞いを疎ましく思う人も多くいたらしい。また、37歳の頃から16歳年下の恋人(男性)と交際し、その父親に訴えられて投獄されるに至ります。

一方のショーは若い頃から小説・書評・音楽評・劇評などを書いてはいましたが、それほど注目を集める存在ではなかったそうです。劇作家としてウィリアム・アーチャーと合作の戯曲『やもめの家』でキャリアをスタートさせたのが36歳。その後、徐々に演目を重ねていき、『My Fair Lady』の原作となった『ピグマリオン』を発表したのは57歳。この作品で劇作家として世に認められるようになったと言うから、遅咲きの作家と言えると思います。そして、ノーベル文学賞受賞のきっかけとなった戯曲『聖女ジョウン』を発表したのは67歳の時。その後も劇作を続け、無くなったのは94歳(1950年)でした。

ショーは20代後半から社会主義に傾倒し、その立場から積極的な発言を繰り返し、周囲からの尊敬を集めるに至ります。しかし、晩年には社会主義を通り越して社会ダーウィニズムや優生学に傾倒し、かなり積極的にナチスを支持するところまで行ってしまいます。

派手好きな芸術家と熱心な社会主義者。しかし、晩年は2人ともそこそこヤバい(>_<)

同郷で同じ時代を生きた作家ですが生き方は全く異なる2人。一見すると接点のなさそうな2人ですが、実際には交友があったらしい。ワイルドが投獄されるきっかけとなった「クィンズベリー侯爵ジョン・ダグラスの告訴」の前にはショーは思い留まるように説得したとか。やはり同世代だし同郷だし、才能ある人だったわけですから交友もあったのでしょうか。

しかし、この2人。いずれ劣らぬ天才作家な訳ですが、演劇観は随分と異なります。そこが本題なのですが、それについては次にまとめます。


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